President’s resume-社長の履歴書

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社長の履歴書

いろんな会社の代表の方の「ごあいさつ」という名の、履歴書を拝見することがあります。
もしこれがお見合いの釣書なら、お相手のご両親が泣いて喜びそうなほど、みなさん、とても立派な経歴をお持ちです。

さて、あらためて自分が「ごあいさつ」をする立場となり、あれこれ考えてみますが。
というか、いまさら考えたところでなにも変わりませんが。
謙遜でもなんでもなく、誰かに褒められるような、あるいは羨ましがられるような、そんな立派な経歴はありません。

それでも、いまなぜ、この仕事をしているのか?
この仕事を通じて、実現したい未来はなんなのか?
自分自身を見つめ直しながら、すこしお話したいと思います。

常に忙しかった両親の背中をみながら、漫然と生きた学生時代

私たちの会社は、私の父と母が立ち上げた会社です。
父は小さい頃からとにかく器用なひとだったらしく、中学を卒業してすぐに木工所に見習いとして入りました。
昭和46年に25歳で独立し寺田木工家具を創業、平成2年に株式会社テクノウッド寺田を設立しました。
創業時から今も会社にいるベテラン職人もいますが、父みずからも家具職人を続けながら、多くの職人とともに、地域をはじめ多くの現場に造作家具をおさめてきました。

私は小さい頃から、常に忙しく働く両親の後ろ姿をみて育ちました。
当時は高度成長期、そしてバブル時代もあり、建設需要も高く、寝る間もないほど、とにかく忙しかったと聞いています。
今ほど安全管理が厳しくなく、アットホームだった当時の建設現場に連れられて、現場の片隅で遊びながら、仕事が終わるのを待っていたこともあります。
今では絶対に考えられない光景ですが、いろんな事情を抱えながら働くひとたちに、世の中も寛容であったと思います。

そんな両親をみながら、自分もものづくりの道に!と、そんなふうに素直に育っていなかった私は、ものづくりにも勉強にも没頭することなく、地元でもあまり褒められることのない学校に進学し、将来のことなんかこれっぽっちも考えずに過ごしていました。

高校卒業後は、なんとなく美術工芸の専門学校に進学しました。
なんやかやで、やっぱりそういう方面に進んだんでしょ?と思われるかもしれませんが、在学中の私は好きな車の自主学習に励んでばかりの学生でした。

研究生として1年間長く学校に残った私は、家業を継ぐという現実を薄目で見つつ、とにかく外のいろんなものを見て触れて体感することを大切に過ごしました。
そして、なんとなくそうなるんだろうなという予想通り、父の会社に入りました。

図面を描くことは、居場所づくりだった

とはいえ、家具職人になりたいとはあまり思わず、当時、会社にはなく外注していた「図面を描く仕事」に、小さな光を見出した私は、パソコンを買い、事務所の一隅に、机と椅子が置けるくらいのスペースをもらい、朝から晩まで独学で図面を描く作業に没頭しました。
目の前には壁、天井には小さな換気扇が回っていて、そこに向かってタバコの煙をふかしながら、私は自分の小さな居場所をつくるのに一生懸命でした。

父がドラフターを使い、ときどき手書きで描いていた図面を苦々しく見つめながら、絶対にいい図面描きになる、ただそう思っていました。
あの頃の自分は、図面の先、その家具の先にいるお客様の顔なんて、まったく見えていなくて、よい図面がなにかを考える余裕もなく、ただ図面が描けるようになって、父を見返し、認めてもらうことに必死だった、ただのクソガキでした。

少しずつ現場の家具施工図を書かせてもらえるようになってきましたが、描きあげた図面を事務所の父のデスクの上に置いておくと、翌朝には指示や訂正で真っ赤に赤入れされた図面が戻ってきていて、いつも不貞腐れていました。

そんなふうにしながらも、だんだんと設計職としてできることが増えていき、職人さんとも自分が描いた図面を通して打ち合わせできるようになり、会社には私ひとりだけの設計部ができました。
私も図面描きとしての自信や意識を持ち始めていたと思います。

覚悟

そして、その日は、あまりにも突然やってきました。
父の死です。
私が27歳のとき、父は58歳で、自死を選びました。

もちろん衝撃的で、驚き、悲しみ、怒り、不安、様々な感情が一気に駆け巡りました。
それは家族みんな、そして従業員のみんなも同じだったと思います。
たくさんの方が家の外階段の下まで、長い列をつくってお通夜に来てくださいました。
「なんでや」と泣いてくださる方もたくさんいらっしゃいました。
でも、その全部がまるで夢の中の出来事みたいに、すべてが終わりました。

それでも、私には感傷に浸っている時間はありませんでした。
会社があり、従業員さんとその家族があり、お客様からご依頼された仕事があります。
私はなんの準備もないまま、状況に追いやられるように、会社の2代目として代表取締役に就任しました。

ただ、覚悟はありました。
私が守っていかなくてはいけないという強い意志はありました。

「もう、テクノウッド寺田は終わった」

会社の顔は、それまで父が一手に担っていました。
その父がいなくなったことで「もう、あの会社はだめだ」「もう、テクノウッド寺田は終わった」そんなふうに噂するひとがいるとか、そんな話を耳にしたとか、昔からよくしてくださる取引先の方たちから聞かされたこともありました。

悔しいけれど、一方で、そんな噂話はどうでもいいことだと思える自分もいました。
そんな噂話を教えてくれる方たちは、自分事のように一様に憤ってくださり、なかには相手の方に「そんなこと絶対にない」とぴしゃりと言ってくださった方もいました。

なにより、父の死後、会社を辞めたいという従業員さんはひとりもいませんでした。
母は父とずっと現場仕事もしてきた経験からサポートしてくれ、妻も自分にできることがないかいつも考えてくれていました。
私や会社のことを支え、応援してくれるひとが、たくさんいる。
それだけで前を向いて生きていくことができました。

父の赤入れ

父の死後もときどき書き上げた図面を、事務所の父のデスクの上に置いておくことがありました。
なんでそんなところに置いておくのだと、妻に尋ねられたことがあります。
「なんか父ちゃんのとこに置いといたら、いいアイデア浮かばんかな?と思って」
自分でも呆れるのですが、父の生前はあんなに疎ましく感じていた、父の赤入れを、いまさら心の拠り所みたいに感じていたのです。

父とともに家具製作に携わった7年間、父の考え方は時代遅れだと、話し合うことも億劫に感じ、図面を挟んではよくけんかもしたものです。
その一方で、父の仕事に対する真摯な姿勢であったり、職人としての父の40余年にわたるその経験と技に、深い尊敬の思いを持っていました。
私のそれまでの成長は父によるところが大きく、またその成長を誰よりも父に認めて欲しいと思っていたのだと思います。
そして、父だったらどうしただろう、どう考えるだろうと思うことが、これからもたくさんあるのだろうと思います。

よい図面とはなにか?

私は今も変わらず図面を描き続けています。
そして、会社の従業員さんは当時から入れ替わったり、世代交代も進んでいるけれど、変わらずよい家具をつくってくれています。
そして、父を見返すために描いていた図面ではなく、お客様や家具職人との互いのやり取りの中で、私はよい図面とはなにか?ということをようやく理解しました。

図面を見たお客様ができあがった家具の状態を、容易に想像できること。
図面を見た職人が製作の意図を理解し、正しく製作できること。
かたちになること以外に、強度が担保されていること。
強度にくわえ、きちんと機能すること。
機能することは、ただの便利さの主張ではなく、そこに必要な使い勝手であること。
使い勝手と同時に、デザインの美しさが損なわれていないこと。

お客様がつくりたい家具を、この家具はこういう描き方だと単純に図面化することが仕事ではなく、それらすべてをきちんと考慮して、不備なく図面化することで、お客様の未来の暮らしに貢献することが、私の仕事です。

「この子はねぇ、日本一の図面描きなんだからね」

実は私には図面について、唯一誇りに思っていることがあります。

私たちの会社は、日本の家具デザイナーの第一人者である、藤江和子さんと40年来のお付き合いがあります。*2023年現在
建築家の槇文彦さんが、黒部の地に「前沢ガーデンハウス」を設計した際、藤江和子さんはその家具を担当されることになりました。
当時、富山県内中の家具製造業者を見てまわっていた藤江さんは、わたしたちの工場に来られた際に、ここにするわ、と即決されたそうです。
もちろんガーデンハウスの家具を製作させていただいて、そこからのお付き合いです。

まだ小学校2年生だった私は、両親に連れられて、東京の藤江アトリエ事務所に行きました。
打ち合わせをする隣のテーブルでプラモデルをつくっていたと思います。
打ち合わせ中の藤江さんの横顔を盗み見ては、その眼光の鋭さに「なんか、ゲージュツ家、すげー」と思ったことを今でも覚えています。

中学生、高校生になってからも、藤江さんの家具の現場についていって、取り付けの手伝いをしたりしていました。
藤江さんは私のことを、そんな子供の頃から知っていて、大人になった今、対等というのはおこがましいですが、同じ図面を挟んで意見を言えるまでになりました。

父の死後の現場でのことです。
私が作図した図面を見た藤江さんが、その席にいた他の方に「この子はねぇ、日本一の図面描きなんだからね」といってくださったことがありました。
藤江さんのちょっとしたリップサービスだったかもしれませんし、私をからかっていただけかもしれません。
でも、それは自分のいままでの努力が報われた、そんな気持ちにさせてくれるには十分すぎる賛辞でした。

私が今日も図面を描き続ける理由

そして変わらず、私は今日も図面を描き続けています。

父の死から、もう18年が経ちます。
その間、もちろん、たくさんの大変なことがありましたが、とりあえず会社はまだ続いています。
あのとき「もう、テクノウッド寺田は終わった」と陰口をたたいたひとたちに胸がすく思いがするか?と問われれば、意外とそんな気持ちは全然ありません。
あのとき寄り添って応援してくれた、背中を押してくれたひとたちに、ただただ感謝の思いでいっぱいです。

私がこの仕事を続けているのは、私やわたしたちの会社を信じてお仕事を依頼してくれるひとや、私を信じて支えてくれる従業員さんたちの思いに、自分のできることで応えていくためです。
そうやって続けた先に、お客様や従業員さんたちの幸せがあると信じているからです。

ちょっと自分らしくないことを言ってしまいました。
誰もこれを読まなければいいなと、ちょっと思っています。
でも、最後に伝えさせてください。
いつも、ありがとうございます。
そして、これからも、よろしくお願いいたします。


株式会社テクノウッド寺田
代表取締役 寺田 晃

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